自分というのはきっと、出会った人たちの思いの欠片だ

こんにちは。
倉持建設工業、東京オフィスの山﨑です。

今日はちょっと哲学的な話をしたいと思います。
皆さんは自分、というのはどういうものだと考えていますか?
生まれつき備わっている自我というものがあり、それが成長して今の自分になっていると考えているでしょうか。


科学的には色々なことがわかってきており、そもそも自我というのは錯覚だということもわかってきています(「意識による判断の7秒前に、脳が判断」:脳スキャナーで行動予告が可能)。僕たちは先に行動し、意識が後付で行動した理由付けをする、ということが実験で明らかになっているのです。

「分離脳」といって、右脳と左脳を結ぶ脳梁が何らかの理由で切断された患者に対して、例えば「言葉」で「今何がしたいですか?」ときくと、「言葉」では「特になにもないです」と答えたとしても「左手の指」がケーキを指差す、ということが起こるそうです。
僕たちの自我というのは、自分で思っているほど盤石なものではなく、自分ではよくわからない感覚や判断の集合体であるようです。

ただいずれにしても、錯覚であろうとなんであろうと、僕たちの自我は社会生活を営む上で必要なものです。自我とは「わたしとあなたはちがう」ということだと思います。
つまり、他者から自分を分けるのが自我、です。
無人島で一人で暮らしている場合、自我は必要ありません。
また、集団の一部としてプログラムされている昆虫に自我はありません。
なので、自我、とは他人が存在してはじめて存在するもの、と言えます。

それはつまり、「他人がいなければ自分は存在しない」ということです。


前置きが長くなりましたが、そういう意味で、僕たちは他人の影響を受けずにはいられません。僕らの自我が成長するということは、より多くの他人を知っているということにほかなりません。3人しか知り合いがいない人と、300人知り合いがいる人の、「わたしとあなた」の違いは、当然母数が多い人のほうが大きいはずです。
読書好きの子供は大人びて見えますが、あれは読書を通して他の考え方(他人)を知り、より自我が確立されているということだと思います。

つまり、自分というのは他人で出来ている、ということです。
オセロというゲームがあります。
あれは黒と白の駒があって陣取りをするわけですが、もしすべての駒が白でゲームした場合、自分がどのくらい勝っているのか、すぐにわからなくなるでしょう。
僕たちは、他人を知り、他人と自分の違いを認識することで、初めて自分というものを定義できるのです。
つまり、他人を知れば知るほど、自分の定義は変わっていくのです。

例えばたまたま友達同士で作った会社が、後のGoogleになったり、大学の友達が未だに会社の重役になっているFacebookという会社があったり、兄弟二人とも一流のバレー選手である田中兄弟や、一家全員体操選手の内村選手など、一見すると才能は偏在している生まれつきのもののように見えます。
しかしこれは、よりレベルの高い他人がそばにいたことで、その人が成長していったということではないでしょうか。

つまり、自分というのは、他人の集合体です。他人のレベルで自分のレベルが決まります。100mを14秒で走る他人しかいなければ、14秒を超えるか超えないかが「自分」の定義になります。10秒で走る他人ばかりであれば、10秒を超えるか超えないかが「自分」の定義になります。全然結果が違うことでしょう。

そういう意味で、僕たちは多くの人と会うべきだと思います。読書も(もちろん作者のレベルによりますが)他人を知るという意味では素晴らしいことです。

自分が居心地のいい場所にいればいつまでも同じ自分でしかありません。是非より多くの人に会い、多くの考え方を知り、自分を成長させていきましょう。

東京オフィス(今日は哲学)からは以上です。

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