誰かが決めた狭い「普通」の枠には、人の可能性は収まらない

こんにちは。
倉持建設工業、東京オフィスの山﨑です。
今日は朝から雪が降っており、最低気温−5℃という、宮崎出身の僕には耐え難い一日でした。
#青森舐めてた


僕は割と変わっていると言われるのですが、この「変わっている」というのは日本語独特の表現のような気がします。
英語で言えば"You are strange one"(お前異常だな)となるのでしょうが、こんな事を言ったら殴り合いの喧嘩になると思います。

つまり、「普通」の幅が日本では極端に狭いので、日本語の「変わっている」は、日本人のほぼ全員がこうするのに、こうしないあなたは変わってますね、という意訳が含まれますが、英語で「変わっている」と言われると、性格破綻者や異常者のようなイメージで、シンプルに悪口です。

アメリカでは他の人と違う部分を大事にするように教わるそうです。まぁ、そうするとコロナ対策を押し付けるなっみたいなデモが起きたりもするのですが、誰かが作った狭い普通の規範に押し込められるよりはずっといいような気がします。

僕の娘はよく「変わっている」と言われます。
授業中もぼーっとして先生の話を聞いていませんし、朝の支度も遅いですし、食も細くて偏食です。宿題も嫌いだし、最近はなんなら勉強自体嫌いです。

でも娘にも言い分があります。授業がつまらないんです。
大人になるとつまらない話は聞かないのに、どうして、子どもには当然のようにおしつけるのでしょうか?
ほとんどの大人が勉強なんかしないのに、どうして、子どもは勉強をして当たり前だと思うのでしょうか?
ほとんどの大人が一日中スマホをいじっているのに、どうして、子どもたちには漢字の書き取りをさせるのでしょうか?

日本の子どもたちが生まれついて普通なのではありません。皆で寄ってたかって普通の枠の中に押し込めてしまうので、考え方や振る舞いがだんだんと矯正されてしまうのです。

うちの娘は何時間でも図鑑を読んでいられます。でも学校で50分も机に座ってじっとしているのには耐えられまえん。自分で検索して見たい動画を探してYoutubeを見ています。でも、決められたことを何度も何度も反復させられる宿題に嫌気が差しています。

勉強が必要ないと言っているわけではありません。藁半紙しかなかった時代と同じ教育を、未だに変えないのはなぜでしょうか?
小学校の宿題は、何故未だに手書きのプリントなんでしょうか?
小学校の先生はPCも持っていないようですが、ほとんどの子どもたちは大人になってPCを使って仕事をします。
正しい鉛筆の持ち方や、書き順や、姿勢も重要なのかもしれませんが、それなら、キーボードの打ち方や検索エンジンの使い方や、表計算ソフトの関数や文書ソフトのスタイルシートの使い方を教えたほうが、よほど有意義ではないでしょうか?

世界はどんどん進化しています。
そのスピードは日本自体のスピードよりも遥かに早く、でも出遅れ感のある日本ですらどんどん前に進んでいます。
教育だけが止まっている理由はなんでしょうか?
未だに30〜40人を同じ教室に押し込めて、算数や国語を同じペースで教える理由はなんでしょうか?
大人になれば理科や社会、体育や情報処理の方がはるかに大事なのに、そういうことを後回しにするのはなぜでしょうか?

算数ができないようでは将来が心配なのだそうですが、僕の知る限りほとんどの大人は日常的に算数を使っていません。
#建設業ではよく使います。三角関数とかも使います。

知識は所詮知識に過ぎません。
重要なのはそれをどう使っていくかで、如何にそれを実践に落とし込めるか、です。
大人になって社会に出ると、社会で必要になる能力を、もっと学校で教えてほしかったな、と誰もが思うものです。

今は激動の時代です。
人と同じことをしていたら人と同じように死にます。
あなたが人と違うことは才能です。財産です。
他の人と違うというわけのわからない理由で、差別が起きない世の中にしたいですね。

東京オフィスからは以上です。

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