歴史は繰り返す。
製造業の歴史はロボット化の歴史でもある。
人はどんどん必要なくなり、事務職に移動していった。
今や、その事務職すら人を必要としなくなる。
人は一体どこにいく?
今こそドカタを見直そう。
事務職 VS ドカタなどと書いたが、これは真実ではない。
人は本質的にどの仕事をしてもいいはずだ。
現に、今までどおり事務職で食べれる人もいる。
AIをプログラミングする人、それを管理する人、破壊的イノベーションを起こす人、人々の感情に訴えかける事が出来る人、は良い方の例だ。
反対に、AIでは処理できない人間のミスをエラーの中から見つけて修正する人、現地で問題を確認してAIに報告する人、などは、悪い方の例だろう。
前者はAIでは出来ない人間だけができる業務。
後者はAIではコストがかかるので人間にやらせる業務。
飲食店は特に難しい。通常の飲食店の多くの場合、接客は売上に貢献しない。タブレットでの注文に慣れた人は、人間の店員にイライラすることもあるだろう。高級レストランはまた事情が違う。そして人は、高級レストランにばかりいくわけではないし、むしろ殆どの飲食店は高級レストランではない。
ドカタという言葉の意味は今や広い。
ITドカタとか、そういう言い方で、肉体を使う労働(システムエンジニアなども、要するに拘束されて肉体を使用しているという点で)を、ドカタと今や呼ぶ場合が多い。
そういう意味では、決してドカタだけがAIに対して優勢なわけではない。
人類はすべてAIの脅威にさらされている。
だが、私は思うのだ。
もし本当に事務職が人類の天職なら、なぜ多くの人が休日に長距離運転して温泉地に行ったり、畑を借りて作物を作ったり、公園を意味なく歩いたり、登山を趣味にしたりするのだろう。
それは、コンクリートの建物の中で人間に仕事をさせるために、何万という人間を電車に押し込めて輸送し、そうした人間を育成するために人生では役に立たない多くの知識を学校で詰め込ませて、ただただ不安に駆られて仕事をするような、そうした人間の反動ではなかったか。
太古の話に戻ろう。
ホモ・サピエンス・サピエンス(原生人類)は、例えばホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)よりも脳の容量で劣っていた。初期の石器はむしろネアンデルタール人の方がうまく作っていたフシがある。
でも我々は生き残った。
人類学者の結論は、「我々の方が妄想力があったから」。
我々は結束した。
数百、数千という単位の結束が出来る。
日本人は1億2千万人いる。
みんな、自分が日本人だと思っている。
これは異常だ。
ダンパー数というのがある。人は本来、150人程度の人間としか顔見知りになれない。
顔も知らない誰かと結束できる、妄想による力。
それが人類の力の根源だ。
そしてこの妄想が、常に人類を先に進めてきた。
あの丘の先に何があるのだろう?
海の向こうには?
ツンドラの向こうには?
アリューシャン列島の向こうには?
そうして人類は進んできた。
今、この瞬間も。
ドカタも事務職もAIの前では風前の灯かもしれない。
でも、ドカタの方が幾分マシである。
次章では、私がそう思う理由を語っていきたいと思う。
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